「籾山模型の魅力」 ~ 創業100年 父子二代で生み出した珠玉の艦船模型 ~

「籾山模型の魅力」 ~ 5. 籾山艦船模型製作所の創設と初期の作品

船の科学館 飯沼一雄

籾山艦船模型製作所の創業は、『経歴書』によれば明治45年(1912)1月1日となっている。 とはいえ、にわかに会社を創業できたとは思えない。
先にも述べたように、明治43年(1910)春の戦艦“薩摩”模型が明治天皇への献上品になったことから趣味が高じて職業となったとしているが、本模型は縮尺1/300全長40センチ程度の小品で、船体形状も艤装品等の細部の表現もまだ稚拙で工作技術も素人の域を出ていない。 個人が自宅で、しかも本格的な工作機械等を持たずに製作するのであれば、この程度が限界であることは明白である。

[写真11] 献上模型の戦艦“薩摩”の細部

そして、2年ほどの修行期間を経て職業としての艦船模型製作に自信を付け、明治45年(1912)1月1日、いよいよ「籾山艦船模型製作所」として大久保百人町に工場を構え、会社を創業したのである。

製作所を興した作次郎氏は、福田中将の「川崎造船所の模型を引き受けろ」の言葉どおり、創業後のおそらくは本格的作品の第1作目と思われる、同造船所建造の巡洋艦“平戸”(常備排水量5,000トン)の縮尺1/96模型を製作する。 本模型は、全長140センチを超える堂々たるビルダーズ・モデルで、細部まで細密に表現された籾山スタイルを既に完成させている。

ところで、川崎造船所(現:川崎重工業)は、薩摩藩出身の川崎正蔵氏が明治11年(1910)東京築地に造船所を創業したことに始まり、明治19年(1886)国営の兵庫造船所の払下げを受け川崎造船所となり東京を引き払って神戸に集約、日清戦争を契機に事業を拡大していったものである。
そして、明治29年(1896)株式会社に改組し、正蔵氏の息子3人がいずれも他界していたことから、松方正義氏の三男 幸次郎氏を初代社長とすることになった。 松方幸次郎氏は、後に事業に成功すると欧州の名画を買い集めて、今日国立西洋美術館で公開されている「松方コレクション」を築き上げた人物で、美術工芸に高い見識と深い造詣を有していた人である。

この川崎造船所は、事業拡大には海軍艦艇の建造が是非とも必要と考え建造用命に燃えていたが、明治33年(1900)海軍が仏ノルマン社に発注した水雷艇“千島”(排水量150トン)の組立て工事を受注、これが株式会社設立後初の海軍の艦艇建造となった。 その後3年ほどの間に、数隻の水雷艇の建造及び組立てを受注している。

こうして、三菱長崎造船所と共に民間の大手造船所として事業を拡大してゆくのであるが、海軍艦艇建造の受注の過程において明治34年(1901)造船総監となった福田中将との接点は十分に想像できるものがあり、それが川崎造船所の模型製作を引き受けることに繋がったことは十分推察できる。 また、急成長を続ける同造船所としても竣工模型の製作は必要であったし、さらに社長の松方幸次郎氏が美術工芸に造詣が深いとなればなおさらである。

川崎造船所は、日露戦争後、民間造船所としては初となる潜水艦3隻の建造を受注、今日でもわが国で潜水艦を建造できるのは川崎重工業 神戸工場と三菱重工業 神戸造船所の2社しかない。 さらに、駆逐艦5隻の建造、砲艦“淀”の建造に続き、佐世保工廠で建造された巡洋艦“筑摩”と同級の“平戸”の建造を用命されて、明治43年(1910)8月に起工、翌明治44年(1911)6月に進水する。 同級の“矢矧”は三菱長崎造船所に発注され、明治43年(1910)6月に起工、翌明治44年(1911)10月に進水、大手民間造船所に同級艦をほぼ同時に発注・建造させて技術力を競わせたことは疑う余地がない。

表02 巡洋艦筑摩級3隻の起工、進水、竣工年月日

初の5,000トン級巡洋艦建造を同業社としのぎを削りながらの建造、こうした最中に創設された籾山艦船模型製作所は、まずこの巡洋艦“平戸”の模型製作が初の大仕事となるのである。

巡洋艦“平戸”は、明治45年(1912)6月に竣工し、ライバルの三菱長崎造船所建造の巡洋艦“矢矧”より1ヶ月半ほど遅れて起工したにもかかわらず、1ヶ月半ほど早く完成引き渡すことができた。 そして、籾山艦船模型製作所の立派な縮尺1/96の竣工模型もこれに併せて完成させることができた。
しかし、残念なことに作次郎氏の父 邦李氏は、籾山艦船模型製作所が創設され“平戸”竣工模型が完成した同じ明治45年(1912)、5月23日に53歳の若さで他界した。

「モデル・シップと40年」で作次郎氏は父の他界により「病身の兄を含め兄弟6人(実際には8人兄弟)の生活が、次男である自分の模型製作の腕にかかってくることとなった」と語っており、弟の卯三郎氏を経理担当に迎えている。
同記事のタイトルバックには、作次郎氏と共に撮影された巡洋艦“平戸”模型の記念写真が用いられているが、本写真は明らかに写真館等で撮影されたものであり、しかも作次郎自身が画面に納まっていることからも、籾山艦船模型製作所の記念すべき本格作品の第1作目と考えてほぼ間違いない。

ところで、この記念すべき第1作目と思われる“平戸”模型は、驚くべきことに今日でも長崎県平戸市にある松浦史料博物館に比較的良い状態で保存されている。 同館は、1,000年の歴史を有する平戸藩主松浦家伝来の宝物を保存・公開する博物館で、本模型も艦名にちなんで政府より松浦家に寄贈されたものとのこと。 当時、この模型の素晴しさに感激した平戸藩が、かつて所有した御座船“一言丸”の銀製模型を作らせて政府に贈呈したという。 贈呈した“一言丸”の銀製模型は写真に残されており、立派な良い模型である。

[写真12] 松浦史料博物館に残る“平戸”模型

作次郎氏は、同年中に初となる銀製の“平戸”竣工模型(縮尺1/192 ?)を完成させているが、案外この“一言丸”銀製模型を見て触発されたものかもしれない。 また、翌年の大正2年(1913)には縮尺1/96の木製“平戸”模型を再び製作しており(最初の作品は4本足、2作目が2本足で識別できる)、本艦だけでも都合3隻の模型を製作しているのである。
こうしたことからも、川崎造船所の本艦建造に賭ける並々ならぬ執念を感じるのである。

これらの竣工模型の写真を仔細に観察すると、船体の外観、上部構造物及び艤装品、マスト、索具、スタンション等細部まで精密に工作されており、後年の籾山スタイルをこの時点でほぼ完成させている。 2年前に製作し明治天皇献上の戦艦“薩摩”模型に比べ、短期間で完成度の高い優れた“平戸”模型を製作できたことは驚嘆に値する。

なぜ、指導者もいなかった作次郎氏が、優れた模型製作技術を短期間に身につけることが出来たのであろうか? 1つのヒントは銀製“平戸”竣工模型の右隅に押されている「T.SHIBATA MITSUKOSHI&CO Japan」の刻印にあるかもしれない。 この刻印は、本写真が三越の関係する写真館で撮影されたものであることを示しており、模型製作に三越が関わっていたことを類推させる。

[写真13] 巡洋艦“平戸”の初の銀製模型

推察ではあるが、当時三越に勤めており書家でもあった父の縁故により、木工、銀等金属加工、漆塗り等の職人に指導を受けるなどして技術を習得し、完成時の写真撮影も行ったのではなかろうか…。

さらには、福田中将の影響力で海軍工廠や造船所における本格的な精密工作技術や造船の基礎及び過程を学び、努力を傾注して2年間で飛躍的に高度な模型製作技術を習得、後年の籾山スタイルを確立させたのではと考えるのである。

作次郎氏は「モデル・シップと40年」の中で、「川崎造船所の妻良(めら)氏も御世話になった一人です。 月給をやるからしっかり仕事をしろといわれて、明治45年から20年程、毎月50円いただいておりました。 妻良氏がなくなるといつの間にか月給も途切れました」と語っている。

月給50円は明治~大正期の公務員の月給とほぼ同額、1円1万円に換算すれば月給50万円を20年間もらい続けたことになり、これも職業としての自覚を呼び覚ませたものであろうし、当時の籾山模型が川崎造船所の建造船に偏重していたことにも納得が行く。

ところで、籾山の能力を開花させた福田中将の次男は、同じく東大造船科出身で昭和15年(1940)より海軍中将になり、翌年海軍艦政本部第四部長にもなった、戦艦“大和”の基本設計者としても著名な、あの福田啓二海軍中将その人である。 親子二代に亘って中将に登りつめた福田父子との強い信頼関係と絆があったればこそ、模型製作で最も重要な極めて秘匿性の高い詳細な設計図書類を入手することもでき、仕事に多大な影響を与えたことであろう。

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